2017.11.14
 
             18歳で大阪へ来て間もなく59年、満77歳の誕生日を迎える。
        77年の人生、朝鮮(韓国)で生まれ育ち、9歳で終戦と引揚を経験し、小学校は朝鮮で2
        つ(鎮海、成歓)、丹後丹波で3つ(口大野、福知山、日置)、合計5つの小学校を渡り歩い
        て丹波の日置小学校で卒業した。

         終戦の年(4年生)には2回も転校を経験しているし、僅か3ヶ月しか在校しなかった学
        校もある。

              高校も篠山から宮津に変わって卒業したので、入学して卒業した学校は中学校(城東中学
        校:篠山)のみであり、思い出も多い時代である。
城東中学校では3クラス約140人の同
        級生が3年間、3人の先生に6教科を習い、先生たちは全員が担任であるかのように生徒の
        個性を伸ばす指導をして下さり、年老いて集まった同級会では感謝の言葉はあっても誰ひと
        り先生たちに悪口を言うものはいないのはありがたいことだ。

         中学校の同級会が召集されたのは満61歳の時だった。
平成10年1月4日、「城東中学
        校が合併で閉校になる」と、地元にいる人達が全国に散らばった同級生に召集を掛けてくれ
        たので、50人ほどが集まり、卒業写真と同じ場所で写真を写したが、その後に校舎は壊さ
        れてしまった。
         15歳で別れ、46年ぶりに再会が多かったのだが、すぐに童心に帰った会話が弾み、中
        学生の時、お茶会をした為楼での宴会も大変懐かしかった。

              それぞれ色んな土地で色んな仕事をしたのだろうが、ほとんどが定年退職した後の集まり
        だった。
以後、同級会は平成12年(63歳、万為)、平成17年(68歳、るり渓)、平
        成23年(75歳、万為)、平成24年(76歳、篠山荘)と召集されたが、毎回、大阪から
        何人かが参加する一人として、今のところ皆出席を続けている。

              先生も平成12年には2人、平成17年には1人出席された。
              既に故人になった同級生も多くなり、参加総数は毎回減っているが、地元で世話をして呼
        びかけてくれる人達に感謝するとともに、今後も何回かは、顔を会わせたいと願っている。

              75歳の同級会の際に、中学校のあった旧日置村と高校のあった旧篠山町を、時間を掛け
        て歩いてみたが、いろんなことが思い出された。

         中学生の頃は、小高い山の中を走り回って遊んだり、農家の田んぼの虫取りや草取りを手
        伝ったり、いなごやタニシを取ったりもした。
ウサギや蚕を飼って育てたこともあった。
              中学3年の時に赴任してきた音楽の先生にはピアノの手ほどきを受け、夏休みから秋にか
        けて超スピードでピアノを猛練習した思い出があるが、結果は高校時代に挫折してものにな
        らなかった。
中学3年では始めたのが遅すぎたこともあるが、家にピアノもなく、更に父親
        に「男がピアノなど」と反対し続けられたのもどうにもならないことだった。


          高校(篠山高校)に入って見ると、私とは比較にならない熟練したピアニストが数多く存
        在し、とても追い付けない大きな挫折感を味わうことになった。

         それでも、篠山高校の音楽の先生はクラブ活動に熱心で、100人を超える合唱団と30
        人ほどのオーケストラもある音楽部に所属出来たのは嬉しかった。

         SPレコードでオーケストラの演奏は聞いてはいたが、初めて生のオーケストラの演奏で、
        ヨハンシュトラウスの皇帝円舞曲を聞いた時は感激だった。

         合唱を経験するのも初めてだったが、合唱団で1年間に練習した曲は20曲を超え、最初
        に歌った曲ヘンデルのハレルヤは、忘れられない曲になっている。

         高校2年で宮津高校に転校したが、オーケストラも合唱団も存在しなかった。音楽の先生
        がクラブ活動には無関心だったためだが、校内には音楽好きの生
徒は何人も存在し、近隣の
        中学校には熱心な音楽の先生が居られ生徒が自主的
にレコードコンサートを開催したり、大
        学の合唱団などを招いたりもし、近隣の
中学校の先生の指導を受ける軽音楽団(約10人)
        が存在し私もこれに所属し、
ごまかしのピアノで合奏の伴奏をしたり、学校祭では独唱の伴
        奏をすることに
もなったが、行事で司会者を任されることの多い2年間を過ごした。
         指導を受けた中学校の先生の勧めもあって町の合唱団にも所属した。

              高校3年生の秋に下級生が中心になって高校にも合唱団を組織したが、私にとっては遅す
        ぎた発足だった。

              ピアノを弾くことに父が反対だったこともあるが、高校を転校して環境が大きく変わった
        こともあって、色んなことに挫折感を持ち、中学時代はよく勉強したが、高校時代は篠山も
        宮津も音楽部と放送部でクラブ活動に明け暮れて、ほとんど勉強はしない高校生活を送って
        しまった。

              大学進学はあきらめることになったが、高校卒業前に初級職の国家公務員試験に合格して
        税務職員になることができ、近畿四国から大阪国税局に採用された124人の同期生が、枚
        方の講習所で1年間全寮制の研修を受けた。

              音楽無縁の世界だったが、音楽好きの教官が一人いて私を大事にしてくれたので、レコー
        ドコンサート中心の音楽部を作って1年を送ったように思う。

         講習所を卒業して多くが田舎に赴任していったが、私は大阪の東成税務署に配置され、森
        ノ宮で寮生活をしながら大阪での生活が始まった。

         森ノ宮、緑橋、深江、今里、玉造、鶴橋等が仕事場であり、大阪城周辺は最初に覚えた大
        阪である。

              以後、40年3カ月勤めることになったが、大阪を中心に18回の転勤を経験し、若い時
        は、大阪のいろんな官公庁の若者が集まって、読書会、キャンプ、スケート、文化祭などを
        自主企画して実行し、多くの行事に参加した。

              文化祭では、合唱指揮やピアノ伴奏をしたこともあったが、司会や進行を担当することの
        方が多かった。

              20代後半で結婚したが、当時は民間企業の半額近い公務員の給与では、民間のアパート
        等には入れず、子供が生まれても安い6畳1間のオンボロ社宅(公務員宿舎)で長らく生活
        することになった。

              20代は色んな事を経験したい。30代は仕事を自分で動かしたい。40代は仕事を楽し
        みたい。50代は仕事を管理する立場でありたい。などと目標にしたが、結果はそれに近い
        経験が出来たので満足している。

         間接税の調査事務が私に与えられた仕事だったが、30代後半から約7年間は国税局で大
        口納税者の調査を担当し、間接税だけでなく法人税調査にも出向させられ百貨店、電化製品、
        化粧品、砂糖、酒造、石油等の業種を担当し、東京や地方の工場の調査にも出向き、関連で
        大手の商社や広告会社などの内幕も覗かせてもらうことになったので、いろんな知識が吸収
        出来て、人生の参考になることが多かった時期だった。

         この間に労働組合の中央執行委員も経験し、東京の中央官庁に出向いたことも多く日比谷
        公園で街宣車の上から演説すること等も経験した。

             しかし、何時からか、上から偉そうに命令されることには抵抗感を持つようになり、いろ
        いろ逆らったことで多少シンドイ人生を送ることになったが、年老いた今もこの習性は直っ
        ていない。

         44歳で管理職の仲間入りをし2年間、丹後へ単身赴任した。
これも、厳しい経験だった
        が卒業した宮津高校の近くであったことから、高校時代の友人や先生と再会し再度、合唱を
        楽しむことにもなった。

         2年後に大阪に戻ると、間接税の租税犯を取り締まる仕事を3年担当し、府警本部や検察
        庁などと付き合い、裁判所にも出入りし、司法の一連の流れを覗くことになったがこれも貴
        重な経験だった。

         税務署長を経験することはできなかったが、50歳を過ぎて総務課長や2か所の副署長を
        経験して勤めを終わることになった。

         58歳で退職し税理士と言う職が与えられ、社団法人の専務理事も5年間経験させて貰う
        ことにもなった。
税理士と言う自営業についても商売気がないためか、金儲けはサッパリだ
        ったが、77歳の今も僅かながら仕事を続けさせてもらうのはありがたいことである。

              大阪へ出てしばらくは、コーラスは続けたいと思った時期があった。
              アサヒコーラスの音楽講座を受講した後に入団テストに合格し、団員となり昭和32年
        12月、旧朝日会館で関響(現大阪フィル)の演奏と朝比奈隆氏指揮でベートーベンの第九
        交響曲を歌った。

         また、昭和33年夏にはフェスティバルホールのこけら落とし公演で、関響の演奏と朝比
        奈隆氏の指揮でハイドンのオラトリオ「四季」全曲を合唱した。

         しかし、約200人のコーラスメンバーの大部分が大学卒や大学生であり高卒で就職して
        参加した団員には何か違和感があり、音楽講座を含め2年ほどでやめてしまうことになった。

        その後、しばらくは職場に合唱団を作りリーダーになったが、これも3年ほどで挫折した。

         25歳の時に大阪労音の運営委員となり約5年間、夜になると会議と音楽会の会場巡りに
        明け暮れる毎日を続けた。

         休日は全国各地の労音との連絡協議で東京、中国、山陰、北陸、名古屋などに何回も出向
        いたり、各地の労音の総会や音楽会で挨拶をすることにもなった。

         大阪労音が全国で初めて、ベートーベンの第九の合唱にアマチュアの合唱を試みることに
        なり、名指揮者外山雄三氏の指揮と京都市立音楽大学の桜井武雄先生の献身的な練習指導の
        協力を受けて、事業専門委員長だった私は、これを成功させる実行委員の中核となり半年以
        上にわたる練習にも付き合い、フェスティバルホールの舞台で大阪フィルの演奏と600人
        の大合唱を舞台に載せて3日間公演したのは28歳の時の大きな経験だった。

         大阪労音の第九の大合唱の演奏は数年間繰り返されたが、今では日本各地の第九の演奏会
        にアマチュアが合唱出演するのは当たり前となり大阪城ホールの1万人の第九の演奏は30
        年も続いている。

              31歳で大阪労音の役員を降り、これ以後は音楽無縁の生活を長らく続けることになって
        しまったが、大阪万博前後の10年間は千里ニュータウンの公務員宿舎の自治会役員を受け
        たのを皮切りに、分譲団地の管理組合の理事にもなり、連合自治会役員、防犯委員、青少年
        指導員等も引受け、校区の盆踊りや体育祭、更には新聞社と共同主催の子供カーニバルなど
        の準備委員や実行委員の中心となって活動を重ねることになった。

              住所は大阪(7年)、枚方(5年)、千里(10年)と変わり、40歳で大阪十三に住み30年、
        70歳を超えて父母が残した茨木の地に住むことになった。

         40歳前後からキャンプリーダーに10年参加したこともあって、オリエンテーリングと
        言うハードな競技を憶え、多くの仲間と大阪にクラブを作り、健康維持のためと称して全国
        各地で開かれる大会に毎年20回近く参加しながら35年以上を経過し、現在も年老いた仲
        間とともにクラブの機関紙作りを手伝っているが、80歳を超えても走り続けている仲間が
        いて敬服している。


         70歳を挟んでSA養成講座、老人大学、いちょう大学、大阪高齢者大学校と渡り歩く傍
        ら、マラソンボランテイアに参加し東京女子マラソンに3回、東京マラソンに5回遠征した後、
        大阪マラソンに2回参加することになった。

             老人大学校で学んだ仲間20人ほどで、コーラスを組織して8年ほど続いている。

 

        以下の写真は大阪府高齢者大学同窓会連絡協議会第5回文化祭「アムールエコー」のみなさん2013.02.13

 
 

         この数年間には今は韓国になっている生誕の地を訪ねたり、国内では住んだことのある場所、
        学校、勤務地などを廻って現状を確認しているが、どこも大きく変わっている。

            9歳で引き揚げてくる時に引揚船から見た対馬と壱岐へも一度行ってみたいと思っているが、
        まだ実現していない。

             政治も少しずつ動いているが、今年はどんな年になるのだろうか。
             長男はもう50歳、3人の子供達はいずれも横浜と名古屋で世帯を持っているので、子も孫
        も誰も近くにはいない。

            動ける間は動きたいと願っているが、老いることは止められない。
            夫婦ともに80歳近くなると、高齢者社会の自分の最後をどうするかを考えなければならな
        くなっている。

            まだ、方針は決まっていないが、いずれは大なり小なり他人の助けを受けなければならない
        年齢である。

            「人の為に役立つなら税理士は続けていたい」と願い、高齢者大学の受講は継続を予定し、時
       間があれば自分史をまとめることにも挑戦したいと思っている。

            ボランテイア団体や活動に参加しても、その中に私利私欲や名誉欲を持った人が入ってくると、
       みんなが迷惑しているので、自分がそうならないよう自問自答して今後の人生を送りたいと願っ
       ている。
 
 

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